序論 /

なぜ理論か — 恣意性を殺す

デザインは発明ではなく継承。証拠・理論・哲学・ルールの上に立てば「なんとなく」が消え、ひとつひとつの判断を引用で裏づけられる。この楽典の立場(典拠主義)と歩き方。

ねらい

この楽典が「何のためにあるか」を、いちばん最初に握る。ここがブレると、このあとの章は全部、ただのバラバラな知識の寄せ集めになってしまう。

ひとことで言うと、この本のねらいはこうだ。

デザインの判断から「なんとなく」を消す。

「なんとなくこの色」「なんとなくこの余白」をやめて、ひとつひとつに「これに基づいている」と言える状態を目指す。その理由を、これから順番に説明していく。

「なんとなく」 気分で決まる この本でやること 「これに基づく」 理由で決まる
図1:この楽典のゴール。判断の出どころを「気分」から「理由」に置きかえる。

デザインは発明ではなく、継承である

まず、いちばん大事な考え方から。デザインは、ゼロから何かを生み出す「発明」ではない。 先人が積み上げてきたものを受け継いで、その上に乗る「継承」だ。

たとえば、これは音楽とまったく同じだ。作曲家は、何もないところからメロディをひらめいているように見える。でも実際は、何百年もかけて積み上がった和声(音の重ね方とその連なりを整理したルール)や形式の上で書いている。土台があるから、その上で自由に動ける。土台を知らないまま「自由に作る」のは、自由ではなく、ただの当てずっぽうだ。

デザインも同じ。良い余白の取り方、読みやすい文字の組み方、目を導く配置——こういうものは、もう100年以上前から研究され、答えが出てきている。あなたが今日ゼロから考え直す必要はない。引き継げばいい。

過去の証拠・実験・研究 理論・原則(読みやすさ・整列…) 様式・流派(誰がどう作ってきたか) あなたの今日の判断(自由に動ける) 土台 上澄み
図2:あなたが自由に判断できるのは、下に厚い土台があるから。土台ごと無視すると、上は宙に浮く。

もしこの土台がなかったら

「土台なんてなくても、センスで作ればいいじゃん」と思うかもしれない。では、土台を持たないとどうなるか。判断が毎回その日の気分から再スタートすることになる。すると、必ずこの4つが起きる。

  • 案件ごとにブレる — 先週の自分と今週の自分が、まるで別人みたいに違うものを作る。
  • 一枚の中でもズレる — 余白も文字サイズも「なんとなく」だから、同じ画面の中でつじつまが合わない。
  • 積み上がらない — 100回作っても、101回目がまたゼロから。経験が貯金にならない。
  • 説明できない — 客に「なぜこの色なの?」と聞かれて、「なんか良さそうだったから」しか言えない。それは仕事ではなく、ただの好み。

この4つをまとめて、この本では恣意性と呼ぶ。「恣意」とは、根拠がなく、その時の気分で決まること。この楽典は、その恣意性を殺すための装置だ。

土台なし=恣意性が起こすこと 案件ごとにブレる 先週と今週で別人 一枚の中でズレる 余白も文字も不整合 積み上がらない 毎回ゼロから 説明できない 「なんとなく」しか言えない この4つを消すのが、この楽典の仕事
図3:土台がないと出る4つの症状。原因は全部同じ「根拠がない」こと。

なぜ「典拠主義」なのか — 学問のやり方を借りる

では、どうやって恣意性を殺すのか。答えは、学問のやり方を借りること。

学問——たとえば理科や歴史の研究——は、こう進む。まず先人の研究を読み、引用する。それを検証する(本当か確かめる)。そして、その上に新しい一段を積む。だから何百年もかけて、確実に前に進んでいける。誰かの思いつき一発で、全部ひっくり返ったりしない。

この本は、この**「引用して・確かめて・積む」というやり方を、そのままデザインに持ち込む**。これを典拠主義と呼ぶ。「典拠」とは、**その判断のもとになっている出どころ(誰が・いつ・何に書いたか)**のこと。「この余白の取り方は、誰それが○○年に確立したやり方に基づく」と言える状態を目指す。

引用する 先人を読む 検証する 本当か確かめる 積む 上に一段足す この3歩を、デザインでもやる=典拠主義
図4:学問が前に進むやり方。引用→検証→積む。デザインも同じ手順に乗せる。

「自由に作る」は最後でいい — まず継承、それから外す

ここで一つ誤解を解いておく。典拠主義は「ルールに縛られて、つまらないものしか作れない」という意味ではない。むしろ逆だ。

ジャズの名手は、まず基本の**コード進行(曲の土台になる和音の流れ)**を完璧に覚える。その上で、わざと外して崩す。何を外しているか分かっているから、崩しが効く。 ルールを知らずに崩したものは、ただの間違いにしか見えない。

デザインも同じだ。まず先行する様式・原則を引用して、その通りにやってみる。それから、理由をもって外す。 順番が逆——いきなり崩す——だと、それは個性ではなく、ただの未熟になる。

正しい順番 継承する 理由で外す =効いた崩し(個性) 逆の順番 いきなり崩す =ただの未熟
図5:崩しが「個性」になるか「未熟」になるかは、順番で決まる。先に継承、それから外す。

だから各クエストには「掟」と「典拠」がついている

ここまでの考えを、本の作りに落とし込んだのが、この楽典のルールだ。すべてのクエストに、必ず「掟」と「典拠」をつける。

  • … 制作のときに、そのまま引ける法則。たとえば「本文の文字は左に揃える」のように、考えなくても実行できる形にしてある。証拠や理論そのものではなく、そこから絞り出した、すぐ使える一行だ。
  • 典拠 … その掟の出どころ。誰が・いつ・何に書いたか。これがあるから、客に聞かれても理論で答えられるし、自分でも「気分で言ってる」のか「根拠があるのか」を区別できる。

料理にたとえると、証拠や理論は「素材」、掟は「料理」、典拠は「レシピの出典」だ。あなたが制作で毎回出すのは料理(掟)。でも、なぜその料理なのかを問われたら、出典(典拠)まで遡れる。これが、感覚ではなく引ける形で残すということだ。

証拠・理論 =素材 絞る =引ける法則(料理) 典拠 =出どころ(出典) 制作で引くのはここ 問われたら遡れる
図6:素材(証拠・理論)を絞って掟=料理にする。その掟は、いつでも典拠(出典)まで遡れる。

この楽典の歩き方

最後に、この本の使い方。暗記する本ではない。引く本だ。

各クエストは、まず「ねらい」で何が分かるかを示し、本論(=なぜそうなるかを説明する中心パート)なぜそうなるかを歴史の流れ(何への反発で生まれたか)から説明する。そして最後に「掟」と「典拠」で締める。だから読むときは、掟だけ覚えるのではなく、なぜその掟なのか(本論)まで分かっておく。 理由ごと持っていれば、教科書に載っていない場面でも応用が利く。

制作のときは逆向きに使う。手が止まったら、掟を引く。客に問われたら、典拠まで遡る。この本を、楽譜のように「弾ける」状態にしておくこと——それがこの楽典のゴールだ。

ねらい → 本論(なぜ) → 掟 → 典拠 読むとき:左から右へ(理由ごと理解) 使うとき:右から左へ(掟を引き、典拠へ遡る)
図7:同じ本を、読むとき(理解)と使うとき(制作)で逆向きに使う。

なお、覚えるのは掟だけにしないこと。なぜその掟なのか(本論)まで分かっておくと、教科書にない場面でも自分の頭で応用が利く。掟は「答え」、本論は「答えの出し方」だと思えばいい。

練習・チェック

直近に自分が下したデザイン判断(色・余白・文字サイズなど、何でもいい)を1つ思い出す。その「なぜ」を、一言で言えるだろうか。

  • 言えるなら——それはもうデザインだ。出どころ(典拠)まで遡れれば、なお強い。
  • 言えないなら——それは掟1でいう「ただの好み」。この楽典を一冊終えたとき、同じ判断に「なぜ」を一言つけられるようになっていれば、あなたは恣意性を一つ殺したことになる。

用語 GLOSSARY

恣意性しいせい
根拠がなく、その時の気分や思いつきで決まってしまうこと。この本が一番なくしたいもの。
典拠主義てんきょしゅぎ
ひとつひとつの判断を「誰が・いつ・何に書いたか」という出どころで裏づける、この楽典の基本姿勢。
典拠てんきょ
その判断のもとになっている出どころ。誰が、いつ、何に書いたか。
おきて
理論や証拠から絞り出した、制作でそのまま引ける法則。考えなくても実行できる形にしてある。
本論ほんろん
各クエストの中心パート。掟だけでなく「なぜそうなるか」を歴史の流れとともに説明する部分。
継承けいしょう
ゼロから生み出すのではなく、先人が積み上げたものを受け継いで、その上に乗ること。
和声わせい
音楽で、どの音を重ねるとどう響くか、その重ね方と連なりを整理したルール。デザインで言う「原則」にあたる。
コード進行コードしんこう
曲の土台になる和音(複数の音の重なり)の、移り変わっていく流れ。
様式ようしき
ある時代の人たちが共有した、作り方の型や流儀。例:スイス様式。
検証けんしょう
ある主張が本当に正しいかを、確かめること。学問が前に進むための手順のひとつ。
スイス様式スイスようしき
別名・国際タイポグラフィ様式。1950年代スイスで生まれたデザインの流儀。「デザイナーは自己表現者ではなく伝達者」と考えた。

RULES TO CITE

  • 判断ひとつにつき「なぜ」をひとつ言えるようにする。言えないなら、それはまだデザインではなく、ただの好み。客に問われても本論まで遡れる状態にしておく
  • 新しく作るときは、いきなり崩さない。まず先行する様式・原則をそのまま真似て、それから理由をもって外す
  • 迷ったら「足す」前に「なぜ要るのか」を問う。理由が出てこないものは消す

典拠 SOURCES

  • Josef Müller-Brockmann『Grid Systems in Graphic Design』(Niggli, 1981/英題初版。グリッド方法論の提示自体は1960年代から) ― デザインを客観的なシステムとして捉える立場
  • Dieter Rams「Weniger, aber besser(より少なく、しかしより良く)」― 良いデザインの10原則(1970年代後半〜80年代に提示)
  • 原研哉『デザインのデザイン』(岩波書店, 2003) ― 空白・余白に積極的な意味を見出す
  • スイス様式(国際タイポグラフィ様式、1950年代チューリッヒ/バーゼル)― 「デザイナーは自己表現者ではなく伝達者」という立場の源流

譜例(実例)

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